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ヨークの聖ウイリアム司教                                      記念日 6月 8日


 ウイリアムは、イギリスのヨーク大聖堂の参事会員及び会計係として功績をあげ、1142年にサースタン大司教の死後、カテドラルの参事会員の大部分によって大司教に選挙された。しかし、この時点でウイリアムの平和な生活は終わりを告げたのであった。ヨーク大司教区のシトー会の修道士達が、ウイリアムは大司教の職につくために金を支払ったと主張した。また他の人々は、彼がステファノ王と親しい関係にあったおかげで選挙されたと言った。このような状況のもとでカンタベリーの大司教は、彼を大司教に叙階することは気が進まなかった。やがて、ウインチェスターの司教で、ステファノ王の兄であったブロアのヘンリーが彼を叙階してヨークの大司教座につかせた。
 その時、事態はまた悪くなった。というのは、彼に大司教としての権威を象徴する祭服「パリウム」を送った教皇が、それが到着する前に亡くなったので、教皇使節はパリウムをローマに持ち帰ってしまったのであった。新しい教皇はシトー会員でウイリアムの反対者たちの味方であった。ウイリアムはローマに行って教皇に会ったが、教皇は彼を信頼せずに停職させた。これを聞いた友人達のグループは、シトー会のファンテン修道院を激しく攻撃して、その農場に放火したので。事情はさらに険悪化した。そこの修道院長はヨーク大司教区でウイリアムの競争相手であった。
 1147年にランスの会議でウイリアムは退位させられた。ウイリアムはブロアのヘンリーのもとへ行き、ウインチェスターで修道士として数年間過ごした。教皇とファンテン修道院の院長が亡くなった後、彼はヨークへ帰ることが出来た。ウイリアムが到着した時、多数の群衆がオース川の橋の上に集まったので、橋がつぶれてしまったが、幸いなことに誰もけがをしなかった。これは将来のためのよい兆しでもあった。しかしウイリアムは生涯の終わりに近づいていて、1154年ヨークに帰った1ヶ月後に死去した。